
【連載】頑張れ!ニッポン㊾
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
▲墜落現場を伝えるNHKニュース
毎年8月になると、終戦記念日に関する報道が続く。そして、御巣鷹山に墜落して520人の命を奪った日本航空123便の墜落事故も。単独の航空機事故としては史上最多の犠牲者だった。じつを言うと、この悲惨な事故は、私の人生を変えることにもなったのである。
たまたま私は事故当日の昭和60(1985)年8月12日、半導体工場がある福岡市から家族4人(妻と二人の息子)で東京の実家に帰省していた。実家について一息つき、母手作りの料理で一家団欒の夕餉を囲んでいると、テレビが日本航空123便(羽田発大阪伊丹空港行き)の墜落を告げているではないか。後で知ったのだが、その便には三菱電機の半導体部門社員も乗っていたのである。犠牲になった社員は、半導体のマーケティングを担当していた技術者だった。
当時、日本の半導体が急成長しつつある時で、1990年に世界市場の半分のシェアを占める、世界一の半導生産国に向いつつある時期だった。半導体市場では、コンピュータ向けの半導体メモリ(DRAMディーラム)の需要が急拡大して、NEC、富士通、日立、東芝などの各社が米国市場向けのメモリの増産に拍車をかけていたのである。
さらに変動目まぐるしい半導体市場の先行き動向を見極める事が重要視され、半導体各社はマーケティング部門の強化を図っていた。メモリ市場では、需要拡大の機会を逃すまいと各社が増産するが、それが行き過ぎると供給過剰となり、急激な価格低下に陥る事がある。価格低下と言っても50%減というような生易しいものではなく、私の記憶では1年で5分の1にまで下がったことがある。
メモリを増産するには、巨額の設備投資が必要であり、投資のタイミングを誤れば膨大な赤字を招く恐れがあった。だから、市場動向、競合他社動向、製品動向(今後伸びる製品は何かなど)、技術動向(微細化の先行きなど)などを総合的に分析することが重要である。
そうした中でマーケティングの担当技術者を事故で失った事は大きな痛手だった。当時の上司たちはご遺族の支援に当たりつつ、後任となる人間を探すことも急いだようだ。そこにたまたま「福岡でボーっとして居た私」が目にとまり、その年の10月に本社半導体マーケティング部門への異動が命じられたのである。
新しい部門ではそれまでのパワー半導体の経験は役に立たず、同じ半導体とは言えメモリやマイコンの事も知らぬ身にとっては大変苦労した。それまでは工場を出る事も少ない人間が、国内はもちろん海外も飛び回る事になったのだ。
本社転勤に際して、新宿牛込の実家の母と同居することも考えたが、諸般の事情により鎌ヶ谷市に建てられたばかりの社宅に落ち着いた。当時私は既に40代半ばに達しており、定年までの時間はそんなに長くはない年齢だ。
そんな時、西白井駅近くに建設中のマンションを見つけて購入した。以来今日まで振り返って見ると30年以上の年月が経っていた。父の仕事の関係や戦争の影響で、私は幼少期から住居を転々としていたが、白井市が我が人生で一番永く住んだ町となる。
以上、私事を長々と述べて恐縮だが、8月になり墜落現場の御巣鷹山での追悼の様子を報道でみると、あの事故が無かったら今頃どこで何をしているだろうかと感慨に耽るのである。
米ハイテク企業のダイナミックさ
話は変わるが、インテルが人員削減を続けているとの報道があった。業界ではインテルからの優秀な人材の流出が注目を浴びているようだ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙によれば、半導体パッケージング技術の専門家が、ファンドリー事業分野では最大のライバル企業であるサムスン(正確には同社の米国法人)に移籍することが明らかになった。同氏はインテルで17年の実績があり、500件の特許を持っている極めて優秀な技術者だとの事である。

インテルからの人材流出は、他社への移籍だけではない。仲間と組んだり、独力で新たなスタートアップ企業を立ち上げたりする人も多いようだ。これまで培ってきた技術資本をベースに、先進パッケージング技術を提供する会社を設立したり、新しい設計手法で新たな応用分野に向けたマイクロプロセッサーを開発するスタートアップを設立したりしている。近年インテルは在職年数の長い人材が増え、企業活動が停滞するのではないかと懸念されていたそうだ。インテルはこれからどうなるだろうか。
私が福岡の工場からマーケティング部門に異動になった1985年当時、インテルはまだDRAMを造っていた。だが、日本企業の激しい追い上げに遭い、DRAMから撤退してマイクロプロセッサー(MPU)の開発に力を入れるようになった。それが功を奏して売り上げ世界一の企業になったという歴史がある。今回のピンチをどのように切り抜けて行くのか注目したい。
インテルからの人材流出のニュースを見ると、ダイナミックな人材の流れを感じ、米国ハイテク産業発展の歴史を思い起こす。昔、トランジスタ発明者のひとりショックレーが創った「半導体研究所」を飛び出した技術者達が「フェアチャイルド社」を創り、そこからさらにスピンアウトした技術者により「インテル」が作られたという歴史がある。人材が大量に死蔵(いわゆる飼い殺し)されてしまうことの多い、日本の大企業とは全然違うのだ。

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)