1980年代後半に調査した東南アジアは今?
【連載】頑張れ!ニッポン(57)
1980年代後半に調査した東南アジアは今?【連載】頑張れ!ニッポン(57)
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

▲高市首相が中心になったアセアン会議
就任間もない高市早苗新首相が、10月26日マレーシアのクアランプールで開催されたASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会議に出席し、見事に外交デビューを果たされた。そこで思い出されるのが1980年代後半に東南アジアを視察旅行した時の事だ。いつもながら古い話で恐縮だが、私に出来るのはそれ位しかないので、どうかご容赦を。
1970から1980年にかけてアジアニーズ(NIES)という言葉が良く使われた。NIESとは「Newly Industrialized Economies 」の略称である。この時期、アジアで産業が急発展した国々があった。具体的には韓国、台湾、香港、シンガポールの国や地域である。1985年のプラザ合意により、円高が急速に進んだ。
同年9月23日には1ドル235円だったドル円レートがあっという間に約29円も下落、1年後には150円台にまでなった。この急激な円高により日本企業は大きな打撃を受ける。だが、当時の日本にはそれを跳ね返すだけの馬力があった。すなわち安い賃金を求めて韓国、台湾、東南アジア(特にシンガポール、マレーシア)に進出し、工場を建設しそこで生産するという手を打ったのだ。
このような状況を見て、社団法人日本電子機械工業会(EIAJ)の調査統計委員会は、アジア地域における半導体市場の実態を調べるために10人程度のメンバーから成る調査団を派遣する。調査団は日本の半導体各社の半導体マーケティング担当者で構成されていた。その頃、丁度私は工場勤務から、本社の半導体マーケティン部門へ異動したばかりの時であった。そして運よくそのEIAJ調査団に参加させてもらったのである。
調査対象として、韓国、台湾、香港、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンが選ばれた。これらの国や地域に展開した日本企業や、現地政府の担当官にインタビューしたのである。そのようにして調査した内容は報告書としてまとめられ、出版もされた。残念なことに、今は私の手元にない。定年退職した時に断捨離で廃棄してしまったのだ。うっかり断捨離などするものでないと今は後悔している。
ここでは調査内容についての説明はせず、当時から30年以上経った今でも印象に残っている事柄について述べたい。
マレー系優遇の「ブミプトラ政策」
シンガポールでは、面談した経済官僚達はみな若く溌溂としていた事が印象的だった。若いとは言っても名刺を見るとみな中堅マネジャークラスの人である。彼らにはシンガポールを発展させて一刻も早く先進国の仲間入りをさせるのだとの意気込みが感じられた。
マレーシアでは、ペナンの日本企業の半導体工場の幹部と面談した。そこではイスラム教や「ブミプトラ政策」が話題になった。イスラム教の社員の為に工場内に礼拝用の部屋を設けなければならない。そして、特定の時刻になると作業員は仕事を中断して礼拝するのである。作業管理が難しそうで生産性も悪そうな印象を受けた。
多民族国家であるマレーシアでは人口の60%をマレー系が占める。だが、経済的には華人が優位にあり、マレー系との間に格差が生じているとのことであった。その格差を是正するための政策が「ブミトラ政策」である。この政策による規制の為、人を雇い入れる場合には、マレー系の人を一定の割合入れるような配慮が必要だ。
日本とは異なる環境のもとでの工場経営にはいろいろな苦労が伴った。タイでは松下電器(現パナソニック)の存在感が大きい事が印象に残る。同社は東南アジアで家電製品を幅広く販売しており、多くの情報を集めているようだった。一般的に東南アジアでは統計データが乏しく、例えばカラーテレビがどのくらい売れているかなどの公的統計データはない。現地に進出している松下電器などは、それらの情報を集めていたようだ。
30年前とは違う東南アジア
タイなどの国ではテレビの普及率を云々する前に、電気の普及率がどのくらいかが問題になるようだ。また識字率も話題になった。「字が読める人の割合はどの位か?」が問題となるのである。日本人の私なんか「エ~そこから始まるの?」と感じた。日本では字の読めない大人など考えられないからである。だが、世界には識字率の低い国はアフリカを中心にまだまだ多いようだ。
インドネシアでは首都のジャカルタのひどい渋滞の中を、我々の乗った車がゆっくり走っていると、渋滞している車の合間をぬって、ビニール袋に入れた水を手にぶら下げて、車中の人達に売っているのを見た。現地の人は車の窓を開けてそれを買っていたのだが、日中の日差しの強い中でビニールに入れた水は、「きっとぬるいだろうし、衛生上大丈夫だろうか?」と心配になった。
インドネシアは当時、人口が日本の倍以上はあっただろうか。現地の役人とのインタビューの時、自分たちは大国だという誇りを感じた。フィリピンではマニラの知事と面談したが、役所の立ち並ぶ地区に入るには頑丈な門で検問を受けて入らねばならなかったほど治安の不安定さを感じさせられた。しかし、30年以上も前の印象である。今は勿論全然違う姿になっているだろう。シンガポールなどは一部の分野で日本を凌駕しており、先進国の仲間入りをしたと言える。30年も停滞していた日本も、新首相のもとで目を覚まし、もっと頑張らねばならないだろう。

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)